シャドウBANは本当にあったのか

 シャドウBANが盛り上がっている。

 イーロン・マスクに買収されて、ツイッターは全体的にごたごたしているが、その騒動の中で、「やっぱりシャドウBANはあったんだ」「いやいやデマに決まってる」という話が吹き上がったのである。

 そもそもBANとは何かと言えば、一般的にはアカウントBANのことを指し、アカウントが停止されたり、抹消されたりすることを意味する。BANの理由はいろいろだ。このご時世、どんなサービスにも利用規約があるが、そこに違反すればペナルティーとしてのアカウントBANが待っている。

 ゲームでグリッチ(バグを悪用した裏技を使う)やチートなどを行えばアカウントBANになるし、イラストや写真をアップロードする系のサービスで著作権侵害をすればこれもアカウントBANだろう。サービスを運営する上で、ルールに従ってくれない人に対する処置としては一般的である。

 それに対してシャドウBANはアカウントの停止や抹消には追い込まれないけれど、なんだか制限がかかっている状態をいう。

 例えば、他の人に迷惑をかける行為ばかりする利用者を、他の利用者から見えなくしてしまったり、その人の活動が検索結果には反映されない状態にする。

 アカウントBAN(停止や抹消)に比べたら軽い措置だともいえるが、多くの利用者はアカウントBAN以上にシャドウBANを嫌う。なぜだろうか?

 アカウントBANはまあいいのである。停止されていいわけはないが、利用規約にそう書いてあるし、BANされた者も、BANされたと分かる。それでもサービスを使いたいと思えば、利用態度を改めるか、サービス事業者に理不尽にアカウントを停止されたと思えば不服申し立てをすることもできる。

 ところが、シャドウBANの場合、多くのサービス事業者はその存在を認めていない。アカウントBANに至るまでのお試し期間のようなもので、いきなりアカウントBANするほどではないけれど(利用者が減るのは、基本的にサービス事業者にとって嫌なことである)、放っておくと不快な目に遭った他の利用者が逃げてしまうから、しばらく様子見といった状況で使う。

 最もうがった見方では、アカウントBANだと利用者にも明示されて訴訟などの面倒な手続きに至ることもあるので、生かさず殺さずの状態にしておくのだ、という解釈になる。

 事業者がサービスの品質を守るのは自然なことなので擁護する意見もある一方、私はやはりシャドウBANはまずいだろうと考える。例えばSNSやゲームがある種のインフラになりつつある社会で、「当然みんなが知覚してくれていると思っていた自分の存在や活動が、社会にはまったく反映されていなかった、見えていなかった」は怖いことだ。その利用者が反省したり、行動を改めたりする機会も奪ってしまう。もちろん、猛者たちはアカウントBANくらいで自らを省みたりはしないのだけれど、だからこそ処置としてはアカウントBANでいい。「みんなを不快にさせる人は、うちのお客じゃありません」でいいのである。

 目先のトラブルを嫌って、「臭いものにはふた」を繰り返していると、そのサービスもその社会も、活力と健全さを失ってしまうと思うのだ。

【著者略歴】

 岡嶋 裕史(おかじま ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「思考からの逃走」(日本経済新聞出版)、「インターネットというリアル」(ミネルヴァ書房)、「メタバースとは何か」(光文社新書)など。

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