最近はめっきり少なくなったが、かつては有権者の同情を誘おうと、選挙の演説会などでしばしば候補者夫妻が涙ながらに土下座姿を見せた。ジェンダー平等が叫ばれている今日ではとんと聞かれなくなったが、応援演説では「〇〇候補を男にしてやってください」が常とう句だった。さらに、公職選挙法の連座制が強化される前は、票の買収もそれほど大きなニュースにはならなかった。
戦前の政治家の伝記や資料をひもとくと、「国のためにこうしてやる」「国民の声を代弁してやる」といった、やや高飛車な姿勢が散見される。「俺でなければ」といった強い自負の者もいた。現行憲法下初の衆院選では、コートを着たまま演説をしていたワンマン宰相の吉田茂が聴衆からやじられると、「外套を着たままだから街頭演説であります」とウィットで返し、謙虚さや卑屈さは微塵も見せなかった。
しかし、昨今の多くの政治家に共通するのは、「させてもらっている」「させてください」といったいんぎんな言葉だ。国民が主権者である以上、政治家が「国政で汗をかかせてもらっている」「国会に送っていただいている」と言ったところで、あながち間違いではない。だが、演説のたび、あいさつのたびに「させてもらっている」言葉が多用されると、何かしらの違和感を抱く。
逆に有権者の方には「議員をさせてやっている」「票を入れてやっている」といった思いがあったりする。だから政治家がグリーン車に乗っていたり、高級店で飲食をしたりするだけで、「偉くなったものだ」と皮肉られる。戦前の政治家の高飛車な態度が、今度は有権者の方に移ったといえなくもない。国民主権の原理からいえば、これも間違いではないのだが、なぜだかふに落ちない。
もちろん、こうした現象は日本特有ではない。どこの国でも「本音を言えば票が減る」(自民中堅議員)のだ。とりわけ政治家のつぶしがききにくい国では、議席を得る、あるいは議席を守ることがその議員や家族の“生活保障”である場合が少なくないから、余計に卑屈にならざるを得ない。落選経験のあるベテラン議員は「残念ながら、立ったまま死ぬより、屈したまま生きる方を選ばざるを得ない」と赤裸々に漏らす。
昨年、各派閥の解消後、自民党本部で閣僚経験のある大物議員の講演があった。「尊敬される政治家を目指すよりも、同情される政治家を目指す方が票が入りやすい」と話すと、聞いていた若手議員たちはメモ用紙にペンを走らせた。確かに天下国家を語るよりも、とにかく腰を低くして小まめに選挙区を回り、「わざわざこんなところまで」と同情される方が支持者は増えるのだろう。
自民党三役経験者の一人は、「若い頃、『選挙区では政治家たれ、国会では候補者たれ』と教えられたが、実践は難しい。それどころか、今では逆になっている」と嘆く。国会の場では、1300兆円を優に超える「国の借金」を減らす必要性を声高に訴えても、選挙区に戻れば道路や橋梁のための予算獲得を懸命に約束する政治家は決して珍しくなく、悲しいかな、それが有権者意識とも合致している。
しかし、政治家も有権者も、どちらも行き過ぎではないか。戦前のような「下々の意見を政治の場で代弁してやっている」といった態度はともかくも、政治家はもう少し堂々と胸を張ってもいいはずだ。有権者の側も、国や地域の未来を託すのだから、尊敬に値する政治家であれば、もう少し謙虚になったり、わずかでも感謝の念を抱いたりしてもいいはずだ。両者の意識が少しずつ変わる、少しずつ変えることも、立派な政治改革になる。
7月には参院選が行われる。参議院に比例代表制が導入される際のうたい文句は「出たい人よりも出したい人」であった。ただ頭を下げ、手を握り、笑顔を振りまく候補者ではなく、真に国政を担ってほしい候補者に「未来を頼みます」との思いを込めて票を投じる光景は青臭い書生論かもしれないが、理想を掲げ続けなければ、政治は悪い方向に進んでしまうものだ。
【筆者略歴】
本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。