しばらく前、とある米国の研究機関が「〇〇法案に対する態度」を問う世論調査を行ったところ、5割が賛成、4割が反対と答えた。だが、実は〇〇法案は実在しない架空の法案で、自分の意見を明確にしたがる傾向が強く、「わからない」「知らない」と答えたがらないアメリカ人の国民性を浮き彫りにするための調査だった。
誤解を恐れずに記すならば、派閥存廃の是非を問う昨今の世論調査にも、これと共通するところがあるかもしれない。例えば共同通信社が2月3、4の両日に行った調査では、50.9%が「派閥も政策集団もないのがよい」と答えたのに対し、「従来のまま」と「政策集団への脱皮」は合わせて41.8%だった。この1、2か月間、派閥が裏金問題の元凶のように論じられてきたためだろうが、そもそも“派閥”の定義そのものが曖昧であることは否めない。
今や永田町でも派閥は「かつての~」「いわゆる~」「カネや人事のための~」といった“枕詞”を付けて用いられる。以前は「うちのムラ(派閥)」「うちのオヤジ(領袖)」などと堂々と言っていたが、最近は派閥について人前で語る議員はめっきり少なくなり、たとえ語る場合でも“過去”と線引きをするし、おのずと小声にもなっている。
世論の厳しい批判を受け、自民党の各派は相次いで解散を決めた。麻生派(志公会)や茂木派(平成研究会)は“政策集団”として存続する方向だが、脱退者が後を絶たない。ほんのしばらく前、派閥の強い推薦で閣僚に起用された者が、早々と離脱して“正義”を語る議員に唖然とする国民も多いが、「派閥とともに、義理や人情、恩義の文化も風化しつつある」(自民ベテラン秘書)のだろう。
しかし、禅問答の類になってしまうが、派閥のどこが悪いのか。今回の裏金問題については、確かに派閥が「トンネル役と指南役」(自民中堅)を果たしたが、最大の原因は政治資金制度の不備そのものにある。「網目の極めて粗いザル法」(野党国対関係者)を思い切って見直さなければ、派閥の有無にかかわらず、政治とカネの問題はいずれまた生じることになる。
経綸を実現するためにグループをつくったり、ある議員の薫陶や指導を受けるために門下生的に集まったりすることは、非難されるべきでない。情報交換の場も必要だろう。大学のゼミナールのように、同じ考えの議員同士が口角泡を飛ばしながら政策を磨いたり、政策提言をまとめたりすることは、むしろ評価されるべきだ。
それ以前に、そもそも民主主義とは最終的には多数決の政治であり、“数”が基本だ。総理総裁も、必ずしも人格識見に優れているからではなく、多数の支持を得た者が就く。だから政治の世界では、否応なく自然発生的に議員の集団ができやすい。いや、もちろん看板は掲げないまでも、政治以外の世界でも「人が三人集まれば二つの派閥ができる」(大平正芳元首相)ものかもしれない。企業でも、「あいつは〇〇に近い」「あいつは〇〇派だから」といった会話は珍しくない。
多くの国民が眉をひそめる“派閥”とは、カネ(政治資金)とポスト(人事)を非公式に差配する集団だ。当然のことながら諸外国にも政策集団や議員連盟、議員グループといったものは存在する。だが、自民党の派閥が「カネとポストを扱い、事務所まで構えている」と説明すると、異口同音に「それは政党だ」といった反応が返ってくる。もっとも、政党助成法を除けば、日本には政党そのものを定めた法律も存在しない。
今回の裏金問題で、派閥は一時的に姿を消すか影をひそめるが、必ず復活するだろう。復活しないほうが不自然だが、形と機能を変えることが大前提となる。「これまでの派閥が体育会だとすれば、いずれ復活する派閥はカネとポストを扱わないサークル的なものにならざるを得ない」(閣僚経験者)との見方は説得力を有する。
オール・オア・ナッシング(すべてか無か)の議論は実に分かりやすいが、“派閥”についてはなじまない。「いかなる形でも派閥は認められない」ということになれば、政治が機能しなくなるか、あるいは国民の見えないところで寝刃を合わすようになる。悪しき派閥政治と決別するためにも、まずは禁止項目を明記したチェックリストを作成し、政策集団だろうが、議員連盟だろうが、第三者が客観的に評価・確認できる仕組みを作ることが現実的ではないか。ここでも岸田自民党の本気度が問われる。
【筆者略歴】
本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。