永田町の住人たちは、戦国時代や江戸時代に自己投影したりするのが好きらしい。大河ドラマ「どうする家康」も、「議員同士の飲み会などで結構話題に上る。永田町での視聴率は意外に高い」(自民中堅議員)という。自分が家康だったらどのような判断を下していたかを考えることは、政治家としてあながち悪いことではない。
江戸開府前後、主君を支える股肱(ここう)の臣たちが、「四天王」や「五奉行」などと称されることがあった。柴田勝家との戦いで武功を挙げた7人の若武者は、「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍」と呼ばれ、その後、豊臣秀吉の子飼いの大名となった。さらに、江戸時代には尾張、紀伊、水戸が「御三家」として将軍家を支えた。
そうした集団の最大の目的は、あくまでも主君を補佐することであり、互いに切磋琢磨(せっさたくま)することはあっても、露骨な足の引っ張り合いはご法度であった。しかし、何らかの理由で主君が欠け、その集団の目的が“後継者の輩出”となれば、いきなり機能不全を起こした。織田信長亡き後の清州会議の例を挙げるまでもない。
非公式ながら、永田町でもそうした歴史上の呼称が借用されてきたし、マスコミも便宜的に使ってきた。故安倍晋三元首相の父・晋太郎氏が首相の座を狙っていた昭和末期、三塚博氏や加藤六月氏らは「安倍派四天王」として忠誠を尽くした。同じころ、小渕恵三氏や橋本龍太郎氏、小沢一郎氏らは「竹下派七奉行」として竹下登氏を支えたが、その後、いずれも後継者を巡る激しい骨肉の争いに発展した。
この1年間、永田町内外で最も注目されてきたことの一つは、安倍元首相の死去に伴う清和会(安倍派)の会長人事である。「そろそろ後継者を決めるべきだ」との声がある一方、「もうしばらくは集団指導体制でいいのではないか」といった意見もある。とはいえ、永田町では「全員が一致して同じ方向を向くことは99%あり得ない」(主流派若手議員)と見られている。
現在の安倍派は、森喜朗元首相がかわいがってきた、西村康稔経産相と萩生田光一政調会長、松野博一官房長官、高木毅国対委員長、世耕弘成参院幹事長の5人が実質的な主導権を握っている。しかし、偶然か必然か、マスコミの中には「五人衆」ではなく、「五人組」と記す社もある。そういえば、小渕首相(当時)の辞任に伴う後継候補を決める際、青木幹雄首相臨時代理(当時)や森幹事長(当時)らは「五人組」と称され、その後、“密室政治”の権化のように報じられた。
五人組はもともと江戸時代に隣保制度として設けられたものであるが、実際は連帯責任や相互監視の性格を強く帯びていたというから、明るいイメージを伴うものではなかった。中国における文化大革命時の「四人組」も、決して称賛された集団ではない。そのように考えると、「安倍派五人組」の呼称が用いられるのは、何らかの負のイメージが持たれているためかもしれない。
清和会は自民党議員の4人に1人が属する最大派閥であり、かつて同会所属議員は「清和会にあらずんば政治家にあらず」などと言って肩で風を切って歩いた。だが、この超最大派閥も今では分裂の危機に直面している。「五人組」を中心に水面下で激しい駆け引きや取引が繰り広げられているが、「震度2の揺れで崩れる均衡状態」(閣僚経験者)だという見方もある。
派閥は政策集団と言われるものの、本来は親分子分の密な人間関係で成り立っている。トップが欠け、後継者の輩出集団になった旧補佐集団で、後継者が円満に決まった例はまれである。それならば、安倍派は土台無理な円満解決や先延ばしを画策するのではなく、意欲のある者が堂々と手を挙げ、それぞれ支持者を集めて競うべきではないか。たとえ分裂することになっても、「令和の清須会議」を公明正大に行った方が国民の理解は得られやすい。少なくとも“密室政治”は繰り返されてはならない。
【筆者略歴】
本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。