電子化は難しいんですよ。というか、電子化とかOA化とか、私が子どもの頃から叫ばれていたので、簡単ならそろそろ仕上がっていてもいいと思うんです。それがまだまだな感じじゃないですか。
理由はいくつか挙げられると思います。まず、電子化の波が次々にやってくるので、20世紀的な電子化はできたけど、21世紀的な電子化が未着手だといったパターンです。これならいいんです。よくはないけど、今まで通りやっていれば、順調に追いついていけるでしょう。
問題は、電子化のやりどころを間違えているパターンです。これは、「電子化」という言葉もいけないと思います。「手紙を電子化するならメールだな、よしメールを導入したぞ」は、進歩ではあるのですが、それだけで世の中が平和になったり、会社の業績が倍増したりするわけではないです。
導入はしたものの、「正式な稟議は紙の書面をもって行う」社内規程が生きていれば、稟議資料は1000枚も2000枚も刷られることになるでしょう。社内便で回覧したり、資料を持ち寄っての会議すら必要になるかもしれません。
局所的には電子化されているのですが、メールが目指す意思決定の迅速化や意思伝達系統の柔軟化には手が着いていません。メールの仕組みを作った人たちは、これらを行う手段として、組織のありようすら変えるためのツールとしてメールを発想しているので、メールから受けられるはずの恩恵を全然享受していないことになります。
ハンコも同じです。コロナ対策で、物理的にハンコが押せない。よし! デジタル証明書に置き換えよう! とやったところは多かったと思います。これは比較的簡単かもしれません。その勢いで非常時に定まった規程を常態化させた組織もたくさんあります。
でも、メールの例と同じで、「最終的な承認は紙の書類の提出を持って完了とする」などと定まっていたら、いくらデジタル証明書を導入しても、誰かが休日出勤する羽目になったり、業務が滞ったりします。
もっと悪い例では、ハンコを押すこと自体が儀式化していて、なんとか出社せずにハンコを押すことはできないものかと頭を悩ませた挙げ句、印影の画像をワープロのドキュメントに添付することで難局をしのぎ切った組織さえ実在します。
これはもちろん皮肉で書いていて、ハンコを押すのは「そのハンコを持つ人が、その書類を決裁した。ハンコを持てるのは本人だけなので、正規の決済と認められる」ためであることから逸脱して、完全な転倒を起こしています。ドキュメントへの印影挿入など、誰でもできるのですから。
例えば、デジタル証明書の導入が技術的・費用的に難しくても、ハンコを押す事実でなく、「その人が承認している」のが重要なわけですから、「その人しか知らないはずのパスフレーズで暗号化してあれば、本人の承認と考えていいはずだ」などとした方がまだマシです。
この種のことを国民性に還元するのはあまり好きではないのですが、やはり日本の組織は「電子化」が苦手なように思います。言葉を換えれば、真面目でルールをきちんと守りたい、一度決めたルールを安易にいじりたくない心根の表れと言えますが、それは重厚長大産業の業務には向いていても、高度に情報化されたサービスや社会では弊害が目立つようになります。
【著者略歴】
岡嶋 裕史(おかじま ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/政策文化総合研究所所長。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「思考からの逃走」「プログラミング/システム」(日本経済新聞出版)、「インターネットというリアル」(ミネルヴァ書房)、「メタバースとは何か」「Web3とは何か」(光文社新書)など。