政治家はことのほか歴史上の偉人を好む。自分と重ね合わせ、イメージアップを図ろうとする狙いがあるのかもしれないし、己を奮い立たせようとしているのかもしれない。とりわけ人気を博すのは、織田信長をはじめとする「三英傑」や西郷隆盛などの「維新三傑」、坂本龍馬などである。選挙区によっては、毛利元就や伊達政宗が挙げられることもある。
岸田文雄首相は元旦に放送されたラジオ番組の中で好きな歴史上の人物を問われると、「徳川家康」と答えた。今年の大河ドラマが「どうする家康」であることから、NHKへの一定の配慮も否めないが、5、6年前に山岡荘八著の「徳川家康」を読み通したというからうそではあるまい。同書は全26巻の超長編小説で、生半可な気持ちで通読できる代物ではない。
徳川家康といえば、「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」の川柳が表すように、忍耐強い武将として後世に伝わる。しばしば「殺してしまえ」の織田信長、「鳴かしてみせよう」の豊臣秀吉と対比される家康は我慢を重ねながら力を蓄え、乾坤一擲(けんこんいってき)の関ケ原の戦いで勝利し、当時としては高齢の57歳で事実上の天下人となった。
しかし、岸田首相が共感したのはそうした家康の“熟柿”の姿勢ではなく、むしろ「若い頃に信長や秀吉にずいぶんといじめられ、苦労した」点であった。得てして人は自分の経験や体験と重なることに共感するため、岸田首相自身、ずいぶんといじめられ、苦労したことが推測される。そしてその“加害者”は誰であったのかと勘繰りたくなる。
人知れぬ苦労は分からないが、岸田首相は伝統ある宏池会の“サラブレッド”として当選回数を重ねてきた。安倍晋三政権でも外相や政調会長といった日の当たるポストに就くことができ、苦労したようには見えない。だが、「岸田さんに厳しい試練を与えたのは、宏池会の前会長であった古賀誠元幹事長ではないか」(閣僚経験者)との憶測がある。確かに政権の禅譲を期待し、腹をくくらない岸田氏に古賀氏は業を煮やして公然と「つくしの坊や」などとやゆしたりした。
家康の苦労を分かち合ったのは、いわゆる三河武士たちであった。「徳川四天王」をはじめとする股肱(ここう)の臣たちが支えたからこそ、いじめられても、苦労をしても、乗り越えることができた。しかし、宏池会(現・岸田派)が一枚岩となって岸田首相を死に物狂いで支えているかといえば、永田町では疑問符が付く。それどころか、昨年11月に相次いで辞任した葉梨康弘法相と寺田稔総務相はともに宏池会の中堅幹部であった。
岸田首相は家康のことを「好きだった」と過去形で述べている。そして晩年は説教好きのおじいさんで、権謀術数を弄して次々と権力を手に入れたことを“家康離れ”の理由として挙げた。このことからも、政権は覇道ではなく、王道で維持すべきだとの思いが見て取れるが、今もなおそのような“書生論”を吐くから「苦労知らずのボンボン」(自民党ベテラン議員)と陰口をたたかれるのかもしれない。
家康について岸田首相は「同じ人間の人生であっても、どの部分を見るかで変わる」とも語ったが、それはそのまま政権についても当てはまる指摘である。昨年の参院選まで岸田政権の支持率は6割前後の高水準で推移したが、今では3割近くである。コロナ対策では半数以上の国民が評価している半面、防衛増税などに関しては反対が多数を占める。「どの部分を見るかで変わる」とはまさに言い得て妙である。
岸田首相は「今は誰が好きかと聞かれると困る」とけむに巻いたが、やはり“意中の人”を探りたくなる。現在進行形の好きな歴史上の人物が分かれば、今後の政権運営や衆院の解散時期を知る手掛かりにもなるだろう。ただ、「こんな稚拙な政権運営をしていた傑物はいなかった」(前出・ベテラン議員)ことだけは確かである。
【筆者略歴】
本田雅俊(ほんだ・まさとし) 政治行政アナリスト・金城大学客員教授。1967年富山県生まれ。内閣官房副長官秘書などを経て、慶大院修了(法学博士)。武蔵野女子大助教授、米ジョージタウン大客員准教授、政策研究大学院大准教授などを経て現職。主な著書に「総理の辞め方」「元総理の晩節」「現代日本の政治と行政」など。