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Web3に至る歴史について【その2】

 

Web3に至る歴史について[その1]の記事を読む

 

 Web1.0もWeb2.0も、それを載せる器であるインターネットそのものも、発想された当初は脱中央集権、非中央集権的な仕組みを目指していたことをつづってきた。

 では、Web3の主張は間違っているのだろうか。

 Web3は「ビッグテックの支配から個人が解放されたインフラ」を標榜しているのだ。Web1.0やWeb2.0がすでに目的を達成しているのであれば、“看板に偽りあり”である。

 結論から言えば、この主張自体は成立すると思う。

 Web1.0は「放送や出版に携わるプロでなければ、世界を相手どる情報発信をすることはできない」状態を覆してみせた。

 でも、そのために個人はHTTPやHTMLを勉強しなければならなかった。勉強は嫌なものである。したがって、可能性は示されたものの、バリバリと世界へ挑んでいく人は稀だった。

 Web2.0は「HTTPやHTML、URLといった情報技術を学習しなくても、文章を書き記すだけで発信ができる」ムーブメントだった。情報発信は簡単になった。Webの取り扱いが難しいことを理由に情報発信を諦める人は減った。情報発信は個人の手に届くものになった。技術の勝利である。では個人は強化されたか?

 そうはならなかった。ブログを利用するためには、その仕組みを用意してくれるプラットフォームを介さねばならなかった。簡単にはなったが、生身の個人が扱うはずだったWebは企業を通して利用するものになった。言葉を換えれば、個人は企業に依存した。

 不特定多数を相手にすれば事故も起こるし、嫌なことも言われる。それまで不特定多数への情報発信を担ってきたのはプロたちだった。教育を施され、専門技能を身につけた上で情報を取り扱う彼ら/彼女らは、トラブルを回避する術も、対処する術も巧みだった。

 でも、いきなり世界デビューを遂げた一般利用者たちは違った。その中には子どものころの日記か、生徒時代の小論文しか文章作成に親しんでいない人たちも含まれていた。投稿は容易に炎上し、知財を侵害し、投稿者を疲弊・離脱させた。

 これは企業にとって困ったことである。そこで企業は対策を講じた。

 人と人とが交われば問題が生じるのは避けられない。であれば、交わらせなければいい。具体的には利用者個々人をプロファイリングし、同じ趣味嗜好(しこう)、価値観、生活水準を持つものを閉鎖空間の中に囲い込んでしまう。この閉鎖空間をフィルターバブルと呼び、フィルターバブルを生じさせて、その中において快適なコミュニケーションを活発に行わせるサービスをSNSという。

 SNSであれば、人々は安心して情報発信をすることができた。利用者たちはますます企業に依存するようになった。

 現代民主社会において個人は何者にも依存せず、自立しているべき。そう考える立場からは、この状況は健全ではない。だからWeb3は言うのだ、「支配から脱却しよう」と。

 でも、Web3を推し進める人たちが軽視していることがある。多くの人にとって自立はしんどい。

 社会を変革しようと試みるような人、すなわちWeb3の推進をもくろむ人にとっては自主独立は何物にも代えがたい価値を持つだろう。でも、一般利用者は支配からの解放に、そこまで興味がないかもしれない。まして代償を払うとなれば。

 だから、Web1.0でもWeb2.0でも、楽をさせてくれる企業への依存が生じ、その企業が権力を持つに至ったと思うのだ。当該企業が無理やり権力を握ったのではなく、利用者が望む形でそれを達成したのだ。

 だから、おそらくWeb3でも同じことが繰り返されると予測する。

 Web3の技術的中核を担うのは、あの「ブロックチェーン」だ。確かに民主的な構造を持つ技術ではある。しかし、利用者に多くのものを要求する。知識も、資源もだ。利用者は企業を介してブロックチェーンにアクセスするだろう。ビットコインやNFTを買うのに、ほとんどの人が取引所を利用していることからもそれは明らかだ。

 Web3は広まるかもしれない。しかし、それは当初の理想とはかけ離れた形でだ。既存のビッグテックから、もしかしたら少しだけ力を奪えるかもしれない。でも、それが移管される先は個人ではなく、違う企業体になるはずである。

【著者略歴】

 岡嶋 裕史(おかじま ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「思考からの逃走」(日本経済新聞出版)、「インターネットというリアル」(ミネルヴァ書房)、「メタバースとは何か」(光文社新書)など。


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