野中広務さんの「生誕100年の集い」が10月下旬、都内であった。「絶対に戦争をしない」と言い続けた政治家だ。
自民党幹事長や官房長官時代に担当だった新聞社やテレビ局の元社長ら約120人が集まった。開会のあいさつに立ったのは、千葉県八千代市の若手市議大塚裕介さん(40)だった。
「肩書を背負った野中広務先生は見たことがなく、いつも人間として身体一つで、すべてに向き合う凛とした野武士のようでした」「先生が最後までお話しされていた『絶対に戦争をしない』『平和を守る』という言葉を、言霊(ことだま)としたい」
肩書や身分で差別をしない「平らな人づきあい」をした野中さんらしい「人選」だな、と思いながら聞いていた。
大塚さんは中学生の時、野中さんの『私は、闘う』(文春文庫)を読んだ。京都の卒業旅行でコースを外れ、野中事務所の前で待ち、手紙を渡した。野中さんが手紙にあった電話番号にかけて「何かあればいつでも連絡しなさい」と始まったつき合いだった。
この「集い」を企画した、野中さんの秘書・山田大智(ひろさと)さん(62)は「最後の『追っかけ』ですかね。ぼくが最初の追っかけだったかな」
「集い」の会場では、野中さんの後に自民党幹事長を継いだ古賀誠さん(85)=2012年引退=が、フィリピンのレイテ島に父親の墓参りに行った時の映像が流れていた。
古賀さんの父親は1944年10月にレイテ島で戦死。出征時に古賀さんは2歳で、父の記憶もなく遺骨も帰ってこなかった。2002年に日本遺族会会長に就任した時、「お父さんの魂を一緒に迎えに行こう」と野中さんに背中を押され、翌年、ジャングルの中へ2人での墓参りが実現した(「読売新聞」)。
野中さんは03年に政界を引退、18年に92歳で亡くなった。戦中生まれの現役政治家は、麻生太郎氏(85)、小沢一郎氏(83)ら6人となった。
防衛費のGDP(国内総生産)比2%前倒し、存立危機事態、殺傷力ある武器輸出拡大。国会は景色が変わった。「絶対に戦争をしない」は遠い昔に去ったかのようだ。
野中さんの弟子を自認する古賀さんはこの秋、改めて訴えた。「頭のいい若い人たちは物事を理屈で判断するが、極めて危険だ。戦争は理屈を超えたものだ。歴史認識と経過を勉強し、取り組んでほしい」
野中さんも、亡くなる直前の8月15日のテレビ番組で、ダメを押した。「戦争をやって国民が幸せになることはない。勝っても負けても」
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.45からの転載】
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