「メタバースではアバターを使って、好きな自分になれる」
メタバースを使う利点として、よく言われる。
私はいくつかの理由で、メタバースにアバターが必須とは思っていないけど、センスのある人は現状のデバイスでも身体感覚を伴って没入できるというから、今後重要性は増していくと思う。
アバターを使う人口が増えてくることに対しては、「なりすまし」のリスクが高まるとの指摘が常に繰り出される。
おそらくそれはその通りなのだけれど、ゆえにアバターの利用を差し控えねばならないようなクリティカルな要素ではないと考えている。実社会でのパーソナリティーをいったんリセットして別のパーソナリティーで活動したい欲求や、それを満たすためのツールは昔からあるからだ。
クリエイターがペンネームを使うのもそうだし、仮面舞踏会に興じるのもそうだ。匿名ゆえに発生するリスクや、巻き込まれるインシデントはあるが、けっこううまく運用されてきたと思う。
アバターはなりすましを行うのに使う情報量が増大していたり、それをコントロールできる範囲が大きかったりと、なりすまし行為者側に有利な側面があるが、対応していくことは可能だ。
むしろ、怖いのは自分のアバターをそのまま受け入れてもらえないことだと思う。
自分が発信した通りに表示してもらえない恐怖である。
何を言っているかといえば、仮想空間は利用者を満足させるためにカスタマイズ性を高く取るのが特長である。「メタバース」として設計された空間は特にその傾向を強めていくだろう。
たとえば、「今日は1人になりたいな」と思ったときに、他の利用者のアバターを非表示にして快適な1人の空間を作るような演出ができる。技術的にはまったく難しいことではない。
1人になりたいから、他人を消してしまえ、くらいならまだいい。でも、「あの人の顔、苦手だな」「あの人の服のセンスがどうしても気に入らない」といったときに、アバターを書き換えられたらどうだろう。
そんなことはないと言い切れるだろうか?
でも、身もふたもない現実として、そのように感じたことはないだろうか。もちろん、現実では「あの人の服のセンス」が苦手でも、必要があるならそれと付き合っていかなければならない。他人の服装を勝手に変えることはできない。
しかし、メタバースならそれは実現できてしまう。
「あの人のアバターの、あのほくろが受け付けないので、非表示にする」機能は実装可能だ。非表示にした人は、その後メタバースで快適に暮らせるかもしれない。そのように「カスタマイズ可能な快適な空間」を提供するのがメタバースの役割だ。
そのとき、「たかがアバターだし、受け手が気持ちよくなれるならそれでいいではないか」と考えるか、「自分の人格が否定された」と捉えるかは人によってぱっくり分かれるだろう。メタバースに没入し、その世界に同化した人にとっては、現実で自分の容姿をやゆされる以上に耐えがたい屈辱になるかもしれない。
何らかの運用ルールが必要だろうが、コンセンサスを得るには非常に工数的、時間的コストがかかるだろう。いま、ちょうど議論を始めたところである。
議論が進んだら、またこの連載で報告したい。
【著者略歴】
岡嶋 裕史(おかじま ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「思考からの逃走」(日本経済新聞出版)、「インターネットというリアル」(ミネルヴァ書房)、「メタバースとは何か」(光文社新書)など。