【コラム】仕事を取られたその後に

 印象派の絵画が好きである。

 ぼくは目が肥えていないので、絵画の価値や技法になにか一家言があるわけではない。

 さらに言えばひねくれものでもあるので、印象派といっても例えば日本でとても人気のあるモネや、王道のルノワールではなく、ドガが好きだ。

 そう言うと、「なんか偏りを感じますね」とか「通ぶってひねったつもりなんでしょ」、「ドガって印象派だったの?」だの言われるが、それはまあいい。

 苦労したんだろうなあ、というところが好きなのだ。

 絵なんてアトリエで描いた方が快適で、ずっと描写の精度も高まるだろうにあえて室外で描くとか(ドガは室内好きだったようだけど)、それまでは目立たないようにするのがお作法だった筆触をあえて大胆にキャンバスに踊らせたりとか。

 「王道の研究分野に取り組んでも、どっちみち大御所の先生にかなうはずがないから、ちまちましたテーマを選ぼう」などと器の小さいことを始終考えているぼくとしては、とても親近感を覚える。いや、もちろん印象派は器が大きいけれども。大成したけれども。

 印象派の場合は、どうしても意識しなければならない対象が、大御所の先生どころの話ではなく写真だったわけである。それまでの西洋絵画って、ものすごく大ざっぱに言えば、写真のような技術を目指していた。

 画業とはある場所のある瞬間を切り取ってキャンバスに再現してとどめる、刻(とき)を保存する技術である。そのために画家は絶佳の画芸を磨いた。バロック絵画(は、ちょっと写実をはみ出すけれども)の人たちの筆致なんて、同じ人間であることを疑うほどの絶技である。

 でも、レンブラントもカラヴァッジオも、ある刻を保存する正確さと緻密さでは写真にはかなわないのだ。

 ではどうすればいいのだ? 筆を折るのか?

 ありかもしれない。それで食べていけるならね!

 多くの者は自分の仕事を脅かすなにがしかが登場しても、おいそれと廃業するわけにはいかない。

 日銭を稼ぐ必要のない恵まれた者も、なんだか湧き上がる律動に描かずにはいられないこともあるだろう。

 そのとき、どうする? ドン・キホーテのようにかなわない相手に、いやむしろかみ合わない相手に挑んでいくのか?

 それも一つの選択肢ではあるが、戦わないとか、別の位相へ行ってしまうという手もある。写真が世に現れた後の印象派のように。

 これは後ろ向きな撤退戦でも不名誉な退却戦でもない。新しい価値を見つけるということだ。画家が写真と真っ向勝負し続けていたら、印象派もキュビズムもなかった。

 だから、人工知能(AI)に仕事を奪われるとか、社会に自分の居場所がなくなっちゃうとか、必要以上に恐れなくていいと思う。ひよこの雌雄判別や花粉飛散の開始日予測では、もう人間はAIの技量にかなわないかもしれないけれど、別のひよこを探しに行けばいいし、それはたぶん人間が得意な仕事なのだ。

 ところで、授業を完全にAIに奪われてしまった後の教員は、どこへどんなひよこを探しに行けばいいだろう?

【筆者略歴】

 岡嶋裕史(おかじま・ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「ジオン軍の失敗」「ジオン軍の遺産」(ともに角川書店)、「デジタル/コミュニケーション」(中央大学出版部)など多数。

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