守れないルールを作るのはよくない。
セキュリティーの鉄則である。
例えば、「花粉症を悪化させたくなければ、花粉を避けろ」というルールを作ったとする。
そんなことができるわけがない。
万一、「おお! 外出するときは花粉を避けて歩くのだな!」と真に受けてしまった真面目な人がいた場合、その人の1日の活動のかなりの部分は実現不可能なアクティビティーに費やされることになるだろう。
そして、多くの心ある人々は、「こんなルールを作った管理者はあほうなのではないか」と疑い、ルール策定者の権威は大きく傷つく。花粉症ルールはもちろんのこと、同じ策定者が作り運用するルールを軒並み無視し、そのルールを迂回(うかい)する抜け道を探すことになるだろう。
そのルール策定者はといえば、管理下にある要員の花粉症を悪化させないというミッションには何ら寄与していないにも関わらず、なんだかいい仕事をした気分に浸ってしまう。
守れないルールは、真面目な要員を無意味な作業に没入、疲弊させ、多くの要員にガバナンスへの疑念を抱かせ、統制を崩壊させる。誰も得をしないのである。
唯一、愚にもつかないルールを作り、「自分は完璧なルールを作った。にもかかわらず愚民どもは自分のルールに従えていない。目的を達成できていないのは愚民どものせいだ。やれやれ」と自己満足に浸れるルール策定者はいい思いをしていそうだが、自分のミッションを達成できていないので、長期的にはこの人も愚者のレッテルを貼られることになる。
でも、守れないルールは後を絶たず出てきて、いろいろな事故を引き起こす。誘惑が多いのである。
まず守れないルールは作るのが楽だ。ちゃんと守れて、実効があり、みんなが納得して従うルールを作るのは大変である。ケースによっては作ること自体が不可能な場合もあるし、作れるにしてもとても手間暇がかかることがほとんどだ。多くのルール策定者はそんな思いはしたくない。
さらには、守れないルールは権威を生む。
悪法でも法は法なのだ!と主張し、それが守れないのはいかがなものかとマウンティングすることができる。そこに、ルールが守れなかった者への救済措置としてお札でも売り始めると、悪徳新興宗教が用いるビジネスモデルになる。
守れないルールを作ることは、ルールがない状態よりも、おおむねひどい状況を生む。
だから、ルールの策定者は、自分が産み落とそうとしているルールが、(理解や納得はさらにハードルが高いにしても)ほとんどの人が頑張れば守れるルールになっているかどうかに、細心の注意を払う必要がある。
ルールを守る側の人も、押し付けられつつあるルールが、本当に理にかなっていたり、守れたりするものなのかは、面倒くさがらずにちゃんと確認しないとまずい。
何が言いたいかといえば、香川県のゲーム制限条例である。
・子どもがコンピューターゲームをしてよいのは1日60分まで(学校が休みの日は1日90分まで)。
・スマホについて中学生以下は午後9時、それ以外は午後10時までに使用をやめること。
・罰則規程はなく、保護者に努力義務を課す。
守れないよ、こんなの。
守るインセンティブにどれだけの根拠があるのか明示されていないし、具体的に守らせる環境も整えていない。
「賛成8割超」という報道が先行しているが、賛成意見は1ページ、反対意見は76ページという反論もあり、執筆時点ではまだパブリックコメントの全体像を見ることができない。
いま入手できる情報からは、よく考えたルールにも、効果を確信したルールにも思えない。ゲームという「嫌なもの」に対して「ダメだ」と言いたいのだけれども、ダメだと言い切るエビデンスに乏しいので、拙速に抑止ルールを決めたようにも感じられる。
一度、ルールを作ってしまえば、「ダメなものはダメなんだ。だってルールなんだから」と言える。これは邪推にすぎないけれども、もしこの邪推成分が少しでもルールに含まれているなら、ルールの策定者も含めて、誰にとっても望ましくない結果をもたらすだろう。
【筆者略歴】
岡嶋裕史(おかじま・ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「ブロックチェーン」(講談社)、「いまさら聞けないITの常識」(日本経済新聞出版社)など。