【コラム】デジタルメディアに居場所を移しつつあるお金

 世界は情報でできている。

 風がそよぐのも、木漏れ日がきらめくのも、砂の粒を足の裏に感じるのも、すべてはそのように情報が伝わり、処理され、認識されるからだ。

 たとえば、性交だって情報の伝達である。

 女性器と男性器という通信機器を物理接続させ、精液というメディアに載せて、遺伝情報をオスからメスに伝達する。どんな事物もメディアになり得るし、どんな情報もメディアに載り得る。

 現時点ではデジタルメディアが、情報の入れ物として人気である。

 劣化しにくく、複写が容易で、情報を載せるのも下ろすのも無視できるほどの低コストで実行可能だ。何よりコンピューターやインターネットとの相性がよい。

 デジタルメディアが、他に冠絶するほど優れたメディアだと言いたいわけではない。たとえば、音声情報は携帯の電波というキャリアー(Carrier)に載せられるが、人を運ぶためには今のところ飛行機などのキャリアーに乗せる必要がある。われわれはまだ人間やスーツケースをデジタルメディアで運ぶすべを手にしていない。メディアには、載せる荷物によって向き不向きがあるのだ。

 ただし、デジタルメディアと相性がよく、デジタルメディアと古典的なメディアのどちらにでも載せられる情報については、どんどんデジタルメディアに移していこうとする動きが加速している。どちらでもよいのであれば、先に述べたようなデジタルメディアの利点が生きる。

 そして、かなりデジタルメディアと相性がよいのではないかと考えられているものに、「お金」がある。

 われわれは、かなり前からお金をいろいろなメディアに載せてきた。貝だったり、石だったり、金だったり、いろいろである。最初のうちは、メディア自体に価値があるものが選ばれる傾向にあった。端的に分かりやすいのである。みんなが銀を欲しいのであれば、銀でお金を造ってしまえば、みんながお金に価値を感じるのは自明である。

 でも、よく考えてみると、銀やプラチナに価値があるというのは、一種の共同幻想である。ブランドものの新作のように、飽きられて価値が下落してしまうかもしれない。一方で、たとえメディアそれ自体に価値がなかったとしても、みんなが「これには価値がある」という同じ物語を信じてしまえば、それはお金たり得る。

 紙で造られた紙幣はその端的な実例と言える。紙に1万円の価値があるわけではない。でも、1万円の価値があると誰もが思うのなら、そこに価値が発生する。

 その考え方を1歩進めると、お金には実体がなくてもよいはずである。紙ではなくて、そこに書いてある1万という数字、すなわち情報に価値があるのならば、その情報を載せるのはデジタルメディアでもいいのである。

 この考え方は特別目新しいわけでもない。われわれは自分の銀行口座を持っているが、そこに書かれている1万円という残高は単に情報である。銀行のどこかに自分専用の金庫があって、中に1万円分の金や紙幣が保管されているわけではないのだ。いま、お金は確実にデジタルメディアへとその居場所を移しつつある。

【筆者略歴】

岡嶋裕史(おかじま・ゆうし) 中央大学国際情報学部開設準備室副室長。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「ビッグデータの罠」(新潮社)など。

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