東日本大震災を語り次ぐ若き語り部の3人。左から小山綾さん、宗像涼さん、齋藤茉弥乃さん=福島県富岡町の富岡町文化交流センター学びの森

広がる“若き語り部”の輪 東松島から富岡へ伝わる熱意

 東京電力福島第1原発に続き、昨年夏に廃炉が決まった同第2原発。東京から北上するJR常磐線は、その第2原発を越してすぐの富岡駅で“いったん”止まる。現在4つ先の浪江駅まで不通で、富岡、浪江両駅間は代行バスがつなぐ。東日本大震災前のように仙台駅まで直結する常磐線の「完全復旧」は3月を待たなければならない。

 富岡駅の周囲は開業2周年をすぎたビジネスホテルや賃貸住宅が立ち並ぶ。造成工事現場を走るダンプや重機の姿も目立つ。駅東の海沿いには建設途上の真新しい堤防が南北に伸びている。

 堤防南端に向かうと、遠目に小さく見えた第2原発の排気筒が次第に大きな姿で現れてくる。後ろを振り返ると、震災前の景観を失った小浜海岸の切り立った岩の先端が、離れ小島のように海中にぽつねんと浮かぶ。東日本大震災の爪痕は簡単には消えない。

堤防の先に見える東京電力福島第2原発(左奥)=福島県富岡町

▼心の復興

 2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故による全町避難からもうすぐ9年になる福島県富岡町。避難指示は町北部の「帰還困難区域」を除き、17年4月に解除され、町復興の取り組みが加速する。

 町の復興計画は「町民一人一人の“心”の復興」と「町民の心をつなぐ“ふるさと富岡”の復興」を理念に掲げる。「たとえ長い年月を要するとしても、決して諦めることなく」帰還困難区域全域の再生を目指す、と町の「帰還困難区域再生構想」は記す。帰還困難区域の再生をもって「はじめて“真の復興”と言葉で表すことができます」(同構想)。“復興”の文字には重い意味が込められている。

▼福島の今

 19年11月16日の富岡町文化交流センター学びの森。町役場など公共施設が隣接する同センター2階の一室に若者たちの明るい声が広がる。福島県内の大学生や短大生ら若者10人が3グループに分かれ「伝えたい福島の今」をテーマに意見を交わしている。

 震災の記憶を未来につなぐ「若き語り部」の育成を目的にした福島県主催のワークショップ「気づき! 伝える若者たちの学習会」に参加した若者たちだ。目の前のテーブルに広げられた白い模造紙の上に、自らの意見を書いた赤や緑の付箋を張り付けている。地に咲く花のように映える付箋が各自の考えを「見える化」し、議論の花を咲かせる。

意見を書いた付箋を模造紙の上に張り付ける参加者

 付箋には「人手が足りない」や「住めるようになっても人が戻ってこない」「いまも戦場である NOW」「まだ入れない地域がある。放射能が高い地域」などの文字。

 この日講演するゲストスピーカーの1人として参加し、同世代の若者たちの議論を傍らで聞いていた宮城県東松島市学生震災ガイドTTT(TSUNAGU Teenager Tourguide of HigashiMatsushima)メンバーの小山綾(おやま・りょう)さん(21)は「人手が足りない」の付箋に目を留め、若者と言葉を交わす。

 「人手が足りない?」(小山さん)、「町に人が戻ってこない、町に戻ってくる人が少ない」(若者)

 このような短いやり取りの後、「戻る」の視点だけでなく「入る」つまり新しい住民、移住者の重要性が新たな視点として浮かび上がる。議論が掘り下げられていく。

▼若き語り部

 小山さんは、同じく東松島市学生震災ガイドTTTメンバーの齋藤茉弥乃(さいとう・まやの)さん(21)と一緒に、東日本大震災を語り継ぐ「若き語り部」の“先駆者”としてこの日のワークショップに招かれた。小山さんと齋藤さんは東日本大震災の被災当時、小学6年生。2015年に震災ガイドグループのTTTメンバーとして、自身の被災体験を伝える語り部活動を始めた。

 「震災を語り継ぐきっかけと現在の活動」と題してこの日講演した小山さんと齋藤さんは、震災時の生々しい体験や語り部に懸ける思いなどを語った。

講演する小山綾さん(左)と齋藤茉弥乃さん

 小学校の体育館で津波にのまれた齋藤さんは「津波にのまれた際、空気を肺にため水面に浮かんで救助を待つ“着衣泳”を実践し、何とか命が助かった」と被災時の危機的瞬間を振り返った。また自宅は2階まで浸水し「避難所や親戚の家、アパ―ト、仮設住宅で暮らし、中学校へは片道1時間をかけて通った。新しい自宅に移ることができたのは2、3年前」と長年の避難生活を話した。

 震災当日は校舎の中で一夜を過ごし幸運にも翌日自宅に戻ることができた小山さんは「母親や妹と車で自宅に戻る際、津波に遭い、小学校に避難し一夜を過ごした。茉弥乃さんと同じ野蒜(のびる)地区に住んでいたが、同じ地区でも被害状況が異なり、私の自宅は浸水などの被害がなかった。自宅が浸水して全壊した茉弥乃さんと異なり、私は自宅避難が続いた」と語った。

▼揺れる思い

 小山さんと齋藤さんが公衆の前で自身の被災体験を初めて語ったのは高校2年生の時。小学校時代の同級生から災害ボランティアに被災体験を話す機会があるので「一緒に話そう」と誘われたのがきっかけだ。背中を押してくれる周囲の大人の勧めもあり、仲の良かった小山さんと斎藤さんは「お互い久しぶりに会える」ということで語り部を引き受けたが、そんなに乗り気ではなかった。

 小山さんは「正直、語り部をするのはすごく嫌だった。家族を亡くしたり家を失ったりした被災者が数多くいる野蒜地区で生活していると、家族も家も無事だった被害の小さい“助かった派”の私は“助かってしまってごめんなさい”という気持ちがずっとあった。“被災”していないから申し訳ないという気持ちから話したくなかった」と語り部当初の複雑な胸のうちを吐露した。

 齋藤さんは「綾ちゃんが一緒に話すから、私も話そうと思った。まさか綾ちゃんが当初、そんな気持ちでいるなんて知らなかった。私は新聞記者さんに何度か津波にのまれたことを話していたので、被災体験を語ることには慣れていた。ただ私も進学した都市部の高校では、被災者の少ない周りと“壁”ができ、津波にのまれたという体験は語らず、適当に言葉を濁して周りの空気に合わせていた」と被災体験を語ることの難しさを指摘した。

初めて公衆の前で被災体験を語った時の写真を掲げて当時の心境を語る小山綾さん

 初めての「語り」では2人とも話しながら涙が止まらなかった。いまから振り返ると「ただかわいそうな子(の印象)で終わってしまった」(齋藤さん)という。しかし語りの回を重ねるごとに、2人の気持ちに変化が表れる。

 齋藤さんは、これまで“壁”を作り空気を合わせていた高校のクラスメイトに被災時のすべての体験を包み隠さず話した時「言葉で被災体験をちゃんと伝えることの大切さを知った」という。クラスメイトは「泣きながら話してくれてありがとう」「生きていてくれてありがとう」「話を聞けて良かった」などと言葉を掛けてくれた。齋藤さんは「きちんと伝えれば震災に対して相手が抱く感情、気持が変わる」と学んだ。

津波にのまれた時の状況を語る齋藤茉弥乃さん

 小山さんは語るたびに、他の被災者に比べて相対的に「被害が小さい」という勝手に思い悩んでいた“負い目”が消えていった過程を次のように説明した。

 「“語り部は嫌”という気持ちが切り替わるまで結構、時間がかかった。中学、高校時代、同級生同士では震災の話はタブーだった。でも語り部として被災体験を言葉にして話してみると、なんとなくすっきりした感覚があった。人の役に立ちたいというよりも、そのすっきり感を求めて語り部を続けてきた気がする。話せば話すほどすっきりする。被災体験が“浅く”被害も小さいということが気になっていたが、“勉強になったよ”と声を掛けてくれる人もあり、私の話でも何かしら役に立つ、と思えてきた」

▼記憶をつなぐ

 気持ちの変化だけでなく2人の話す内容も少しずつ進化する。震災5年目ごろから「体験を話すだけでなく、体験を踏まえた防災のあり方などを話すようになった」(小山さん)という。小山さんは「震災を知らない世代、小学生に被災体験を伝える機会も増えている」と記憶をつなぐ重要性を自覚する。

 齋藤さんは語り部を続けることで得られた震災に立ち向かう前向きな気持を毎回伝える。

 「震災はたしかにマイナスばかりに見えるが、少なくとも語り部を始めた私たちTTTにとっては、語り部をすることでいろいろな土地でさまざまな人に出会い、普通の生徒・学生だったら、できなかった貴重な経験をさせてもらっている。私にとってはマイナスを上回るプラスがある」

▼被災地域をつなぐ

 小山さんと齋藤さんの講演後の質問タイム。会場隅の見学席でじっと2人の話に耳を傾けていた一人の青年が手を挙げ、人懐っこい笑顔で質問する。

 「僕も2011年3月11日、お二人と同じく、小学6年生の時、富岡町で被災した。齋藤さんは津波にのみこまれた瞬間、どんな気持でしたか」。

 「パニックにはならなかった。とっさに頭に浮かんだ着衣泳をもうやるしかないという気持ちだった」という齋藤さんの答えを、青年はうなずきながら聞く。

マイクを握り質問する宗像涼さん(左)。右は齋藤茉弥乃さん

 青年は、福島県郡山市での避難生活を終えて19年春に富岡町に戻ってきた宗像涼(むなかた・りょう)さん(21)。震災時の原発事故に伴う全町避難で小学6年の時、富岡町を離れ、郡山市で中高、専門学校時代を過ごした。家庭の事情で富岡町に戻り、コンビニのアルバイトを始めたが、思うところがあり、震災を語り継ぐ活動に取り組む特定非営利活動法人「富岡町3・11を語る会」に就職。同会で事務職員をしながら、富岡町の若き語り部を目指して日々奮闘、19年9月に語り部として“デビュー”した。

 現在手探りで語り部活動に取り組む宗像さんにとって、小山さん、齋藤さんは同い年だが、尊敬すべき語り部の“先輩”。この日の2人の講演を楽しみにしていた。

 講演の感想を聞くと、宗像さんは「マイナスをプラスに変える2人の力がすごい。自らの経験を自分の言葉に変えて伝えていくことの大切さを知った。僕も負けられない」と自らを奮い立たせる。「語り部をすると、原発のことなどいろいろ質問されるが、いまは答えられないことが多い。一人前の語り部になるためにはもっと勉強しなければならない。町内に同世代の若者は少ない。数少ない若者の1人として富岡の未来のために役立ちたい」と意気込む。

▼道なき道

 5時間近くのワークショップは、昼食をはさみあっという間に終わった。終わりに際して3グループがそれぞれ議論のまとめを発表する。「どのように震災を伝えていけばいいのか」「震災情報の発信の仕方」など多くの重要な課題が浮き彫りになる。

 グループで議論のまとめ役を務めた福島大4年の中村直貴(なかむら・なおき)さん(23)は「今日のように若い人や関係者が横の連携を強めていくことが大切ではないか」と被災地・被災者間の連携・連帯の必要性を強調する。

さまざまな課題を浮き彫りにしたワークショップの成果

 現在、富岡町のおよそ12%は「帰還困難区域」として立ち入りが規制されている。近隣の大熊町、浪江町、双葉町なども町域の多くがまだ帰還困難区域だ。

 東日本大震災と原発事故は、米軍の原爆投下など日本の主要都市を焦土と化した太平洋戦争の敗戦に次ぐ「第2の敗戦」といわれる。未曽有の大災害から立ち直る復興への道のりは“先例”がなく、歩みながら作っていかなければならない。

 福島県は、震災と原発事故の記憶と記録を後世に伝えるための「東日本大震災・原子力災害伝承館」を20年度、双葉町に開設する。震災を知らない世代に震災・原発事故の真実を伝え、自らの被災体験をこれから長く語り継いでいく「若き語り部」の存在は、今後ますます重要になる。

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